昭和48年11月13日 十三日会
加藤恵美子
親先生のご挨拶
ここに神が生まれると言う事であつてと、この方だけが生神様とみんなも、その様なおかげを受けられる、これは私自分が心の中に生神様が誕生するのが有り難い、真に有り難いと感ずるその心が、その物が生神だと信じます、その今日改めて、分からして頂いた事は生神とは自分の心の中に生まれてゆくだけじゃないと云う事、自分の周辺に生まれると云う事、ここに生まれると云う働きをさせてもらう、それが出来るようになる事が悲願、それですから、いつも出来るような働きね、それをどういう事かと云うと今日、先程、御祈念前に「さしで」のここの部落の久保山さん、おんなさいます、お届けされましたけれども「親先生、私信心のない時分は家計簿をずつと付けよりました所が信心さして頂く様になつてから、今迄より、いわば第一のお初穂を、お供えなんかと云うような物が嵩んで参りますから、もうつけません、大体つけたがいいでしょうか、どげがいいでしょうか、だからそれは、付けないのが本当だよ、と申しました事でした、それは信心がないならばーつの、今月は、いくらしか入らんから、いくら使う、為には、日々いくらしか使えんと、いつた様な意味合いでも、ーつのバロメーターになるわけですから、大変便利かも知れませんそれは唯、必要なだけ、その困らない様にするだけの事であつてね、信心でおかげを頂くと云うことはそんなものじゃない、えーと云うて、それが実は本当にですね、その「つがめ」がおうていくと云う事、お参りしよらなかつた時、お供えやら前日まあ相当の金額のお供えをさして頂くわけですけども、それが何とはなしに「つがね」のー年ならー年、締めくくつて見ると成程あの今迄、分かり易く、云うならばですよ、お医者に幾ら払いよつた、罰金も払いよつた、税金もこげんじゃつた、と云つた様な兎に角まあ厳密にー年締め括つて見ると、そう言う様な事が、あのおかげを頂いて「つがめ」がおうていきよつてと云う様な事になるんんですけど、その辺は理屈じゃない、あの玉水の湯川先生が皆さんもご承知のような、それこそ日本一の御比例を立てられた先生です、けれども、あちらでは、特に経済的な面で、みんなおかげを頂いたんですけども、もう金が足りないと言う時なんかは、もう金の計算は決してするなね、ほとんど商売人が多いですから、金庫があつて金庫の中にあるだけ出ていく、そして取り来たならば取り来ただけ払え、お前げんには払わん、どこにどうじゃなか、取り来た奴がおかげと思うて払え、こりゃもう大事に取つとかにゃ、どこに払わんならんきなんて言わんでね、月末にー月分のそれが分かるんだと云うような事をお取り次ぎなさつたと云う事、所が不思議にその月だけは、おかげ頂いて余ることも足りぬ事もない丁度の、お繰り合わせを頂いた、今迄は赤字ばつかり、所がその翌月に今度はその人が25日のまあ後4、5日で今月は、大体どの位のおかげ頂いたんやろうかと思うて調べたハアーまあだ5日間ある、5日間でまあ、幾ら頂かなきゃ今月は、つづまりがつかんぞと思うとつた、所が案の定その月末には払えなかつた、親先生もう今月は足りませんでしたと言うたら、お前が途中調べたろ、と仰つしゃつた、そりゃそう言われてみたら25日に調べてこうこうやつた、もう其処に人間心が入ると云う事がすでに神の働きを、せつかくの働きを働きの場を無くして仕舞うわけです、だからこれは金銭だけのことではありません、時間の事だつてそうです、いかにその田中さんじゃないですけど、そりゃ4、5日ご無礼をした、それは普通会員なら常識なんです、又神様もいいや取り上げを押してから参つてこいと仰つしゃる事は無いです、けども本人がその気になつて、おかげを頂くとね、お参りしとく方がかえつて良かつたと言う結果になる、例えば濡らさんならんもんも濡らさんで済んだとか、そこには必ず一日、二日ひまがいるとかいらないとかじゃないです、それのほうが、おかげになつておると云う事実を体験したら昨日、田中さんじゃないけれどもね、だから取り上げ仕舞う間はご無礼します、ところが四、五日ぶりに参つて来て御祈念をさしてもらい、御理解を頂いている内に、やつぱり参らにゃいけんというものを、感じた、それで今朝参つて来ておられます、そこに神様の働きの場が生まれる、金銭の事時間の事だから、ここに神が生まれると云うこと、ここの中身だけじゃないと云う事、自分の周辺に神の働きが現れる、神がここに生まれる、そういう働きを出来るような生き方を身に付けた、付けるということが生神を目指す道だと云う事、今日はもう私は初めての御理解、生き神とはここに神が生まれるということであつて自分の心に、有り難いなあと、思わず心の底から沸いてくる物、それが、すでに生き神という事、私はそれで、これを育てていくのが生神だと思つておつた、間違いじゃない、そうだつた、けど生き神とは心に生まれるだけではなくて自分の一番、身近かな所に生まれる、周辺に、なら、神を誕生させる働きと云うのは今云う久保山さんで云うならです、あの家計簿は付けんなりに、神ながらな生き方に、付けていく所に一月締めくくつて、やつぱり、お参りせんでお供えしないときも、お供えしても「つがめ」はおうておる、いやいや、そんなこつちゃない、本当云うなら、もうお財布の金額がへつとらな、ならんとに、ただ「つがめ」が、おうとつただけで、それが力になるのだから有り難い、そこに神の働きがある、してみると久保山さんホラ、お参りのしもうけ、云うならば、お供えの、し儲けと言うことになるね、と言うて、さつき話した事です、日に日に参つて、日に百円ずつお供えするなら月に三千円もいると、それが合楽の言葉なんかは矢張り五百円、千円する、みますの人云うなら二万円も三万円もする、月の赤字になるかならないか、赤字になつていないと云う事実が、そこに神をも生み出している、これがおかげです、それが、なら、五年たち十年立つていく内に、大変な大きな財産になつとるような、おかげにもなつて来るのです、私はそんな事、頂いて、本当に神様にお縋りをすると云うても、只、都合の良いお縋りだけだから今、申します神が生まれるようなおかげに、なつてない、只お縋りすれば、お縋りした事だけは成就しても、それ以外の物が成就しない、神が生まれると云うような働きという物は、だからもう云うたらバカと阿呆で道を開けと、仰つしゃるが、もう本当に頭で考えることはいらんと云う事、今月は幾ら出るとかどうのと計算ばつかりし寄と足らんごとなる、だから計算したらならんと言うことじゃないけれだも、そこんところの神様の働きをまづ自分の個々に頂いて分からして貰うてです、そういう事が云うならば平気でできれる信心又はそれを信じきつて、出来る生き方それを身に付けていくと云う事が、取りも直さづ生き神ここに誕生と云う事になる、勿論、和賀心の中に信心の喜びを感じ、それが「速」生き神、けれど生き神の働きが自分の周辺に現れると、なら、その働きの場と云うものを私共は、せまーくしてしまう、人間の心ばつかり使う、頭でばつかり考える、幾らお供えすれば、こげんなると考えとるから、いつまでも生神の誕生を見ることが出きんと云う事信心の度胸がいる、さあ取り上げの真最中、だからお参りせんでも神様は、いやあ神様は取り上げの真最中でも参つてこんならんと仰つしゃる、けれども田中さんじゃないばつてん、やつぱり参つた方がいいと云う事が分かつて参らして貰う、決して取り上げは遅くもならなければ、それで困つた桔果は生まれてこん、かいつて、それが神の働きの場と言うものを、そこに造るから、でも一人が働いた位の事じゃない、働きと云うものが時間は何時間使うた位の事じゃない働き、そこに信心の「れい」の不可思議さと云う物を感じる。 そこに生き神が生まれると云う事は自分の心だけのことではない、自分の周辺にも神様が誕生しようと、ー生懸命しござる、もうその人の周囲に、いつも生まれようとしてござるけれども、それを人間心で消してしまつておる、ここん所は信じて分かつたらね、いよいよ信心が楽しい有り難い、生き神がもうそれこそ日に何人でん生まれなさるね、その生き神様の中に自分か住まつとる、勿論自分の心の中にも生き神が生まれてくる、そう云う生き方を体得して身に付けていきたいね。
お供えのし儲け、いつかこりゃ仲村さんが云われた名セリフですけど、これを本当に身に付けることですよ、信心とは。 終わり
昭和48年11月13日会のご挨拶
正直、気づかせて頂いたのですけど、そこの中庭、石庭が出来ております、石庭のあの石の周囲に苔を移植してあります、見事に、これが見事になつておりますが、あの大きな岩と岩との組み合わせてある所に「しだ」が大変格好よく芽が出てるんです、勿論あそこに「しだ」を持つていつて植えたわけでもないのです、けれども植えるなら、やつぱり、そこに植えるだろうと思うような所に?困りますけれども、そこに植えるなら、そこに植えるだろうと思う所に「しだ」が芽をだしておる、岩に「しだ」の種がついておつたのか、これは、あの茶室の前の内玄関前の手洗い、「つくばい」があります、あすこん所に生えた時もそうでした、はー間がいい所に芽が出ているなと、十三日会の時に、あそこを当番に、あの辺をお掃除すると必ず、その次に行つた時、必ず、それを取つてしまうている、二、三回続いたでしょう、あれを、やつぱ雑草と思つたんです、それで、ここを、お掃除する人に、誰か言うとかにゃ、いけないよ、これは取らんようにせんと、それから取らんようになりましたけれど、今度は又違う所から生えたりして、ちつた今度は藪のように成り過ぎたと云う感じがあります、、ここの天地書付けを配石してあるこの石庭もそうです、あの天地岩の、岩のとつ先に椿が生えております、あれを、ここに石を据える時などは、ああいう芽もなかつたけれどー年後位に芽がでだした、それがなんと椿の木であつた、それが今、あそこで色々とその事を御理解に出てくるような不思議と云えば不思議な、そういう自然な働きを頂いております、ここで皆さんもご承知の様に、この信心の云うなら筋金となつておるものは成りゆきを尊ぶと云う事、いや大事にすると云う事、それが最近では御事柄と云うような言葉で表現されております、今度の十三日会の案内に高橋さんが、どう云うふうに今度の案内は書かして頂こうかと云う事でございましたから、成りゆきを尊ぶとか大切にするとか云う事の再吟味を、差して頂かねば成らない様な感じがする事がある、自分達が頂いておる成りゆきを大事にする、こりゃもう真の信心とはこれ以外にないとさえ、私は思う位です、けれども真の信心だ真の信心だと言うたり思うたりしてる内にです今度は云うなら、生えてはいけない所に雑草が生えて、おつたりする様な事があるならば、矢張り今の内に芽を摘んだり、取り除いたりしてゆかねばいけない、ときどき、その再検討が必要である、今日は、そう云う様な事を私共の生き方に、どういう所に再検討を加えなければならないかといつた様なことを中心に共例さして頂きたいと思います、どうぞ名名の頂いておる今の信心の、これは、このままではいけないぞと、いつた様なものがありはしないだろうか、そこを一つ吟味していきたいと思います。どうぞよろしく。